社長のひとりごと

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このコーナーは、わが社の社長「大鎌 博」が日々感じたことや、気づいたこと、為になる格言等、思いついたままに綴った、独白(モノローグ)コーナーです。

私達社員も、いつも読んで、新たに気づかされたり、励まされたり、勉強になって、仕事に活かせたりと、とても有意義に活用させていただいています。こんな素敵な独白を是非多くの方にも読んでいただきたくて、又、そんな社長の人となりを皆様に知っていただきたくてこのコーナーを作り、連載することにしました。

お部屋探しの合間にでも気楽に読んでいただければ幸いです。

 

No.1

今も息づく「山の手」と「下町」

 東京は今でも<山の手>、<下町>と呼ばれることがあり、生活や文化の色合い(?)の違いが話題となることがあります。

 すでに江戸時代から高台には武家屋敷、低地には町人や下級武士が住むという区分けはあったわけで、日本最大の<革命>といわれる明治維新を経ても、関東大震災を経ても、また太平洋戦争の首都爆撃を経てもなお、現在に至るまで、こうした地域差は息づいているわけです。

 どうも標高20mという等高線が私たちの住む台地と低地の分かれ目のようで、これが山の手と下町の境界の目安となっているとのことです。

 さらに、1925年から26年にかけて確定した内務相告示による用途地域の指定です。これは山の手の高台が住宅地域、隅田川土山の手の中間に位置する京橋区、日本橋区、墨田区、浅草区の大部分と四谷、新宿、渋谷等が商業地域、そして隅田川の東の深川区、本所区の大部分、後に東京市に組み入れられる地域(城東区、向島区、荒川区、王子区)の大部分を工業地域と指定するものでした。つまり、下町は隅田川の東と西に二分されて、都心の下町は商業地域、隅田川の東側の新しい下町は工業地域とされました。

 この告示により、その後の東京の運命が決められ、独特の三元構造をとるようになった、とされます。新中間階級が住む山の手、繁華街へと成長した古い下町、そして工場地帯で労働者階級の住む新しい下町、というように、現在につながる区分けとなりました。(『階級都市 ―格差が街を侵食する 』橋本健二 ちくま新書)

 橋本氏によると、私たちの世田谷は以下のようになります。

――山の手の高級住宅地というイメージが強い。正確にいえば「新山の手」、つまり、元は郊外でありながら、東京の拡大とともに山の手に飲み込まれてきた地域だが、古くからの山の手が都心としての色合いを強め、「山の手」のイメージに合わなくなるにつれて、山の手を代表する地域のように見なされるようになった。住民についても、高学歴で豊かな人々というイメージがある。

 政令都市並みの人口を擁し、面積も隣接の大田区に次いで二番目の広さを誇ります。武蔵野台地の起伏により、私たちの世田谷も多彩な顔を見せています。

 茶沢通りの三茶側の起点の標高は31mで、そこから緩やかに下り坂で、一番低いところ(烏山川緑道)で24mとなります。この地点の手前右側に太子堂中央街という下町風の商店街があります。

 そして、下北沢は東西および北の高台に囲まれ、その高台の標高は約40m、これに対して駅南側の商店街の標高は30m弱となり、10m以上の差があります。皆さんもご存じのとおり、下北沢の商業地は「山の手の中の下町」の風情を呈しています。

 さらに、私たちのエリアである用賀と二子玉川を含めた、まさに国分寺崖線による標高差が、私たちのエリアの多様なイメージを作り出しています。国分寺崖線は高低差が20m以上もあり、私たちの街の中に山の手と下町を形成するには充分すぎるものです。

 この<山の手>と<下町>の両方にまたがっているという、とても特異な地域に私たちは住まいを提供しています。

 ところで、ライズのキャッチコピー「都心さえ憧れる~」は、どこの<都心>だったのでしょうか?

 

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