社長のひとりごと

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このコーナーは、わが社の社長「大鎌 博」が日々感じたことや、気づいたこと、為になる格言等、思いついたままに綴った、つぶやきコーナーです。

私達社員も、いつも読んで、新たに気づかされたこと、励まされたこと、勉強になって、仕事に活かせたり・・・、そんな社長の人となりを是非皆様に知っていただきたくて、このコーナーを作り、連載することにしました。

是非お部屋探しの合間にでも気楽に読んでいただければ幸いです。

No.12

「書物でみる「天麩羅」の歴史」

 徳川家康の死因が鯛の天麩羅の食中毒とは、よく言われることですが、とすれば17世紀初頭には天麩羅があったということになります。その記録には「かや(あるいはゴマ)の油で揚げた鯛に、ニラ(あるいはヒル)を摺りかけ」たものを食べて「ふた時(4時間)ほど後(夕方あるいは夜)に激しい腹痛を起こした」とあるそうです。これは「天麩羅」というより「素揚げ」ですね。そして、回復してから三か月ほど経って死去したということですから、はたしてその死因は「鯛の天麩羅」だったのでしょうか。

 最初に天麩羅の名が出てくるのは『料理食道記』(奥村久正 京の医師 1669年)で「てんふら」と表記されていました。「食べた」と記されるのは元禄期で「鴨・鱏魚(えい)てんぷら」(『鸚鵡籠中記』朝日重章 尾張藩)とあります。ただ、どんな料理かは不明で、天麩羅の作り方が料理本に出てくるのは18世紀半ばまで待つことになりますが、そこには、現在の天麩羅に繋がる「てんぷ(ふ)ら」と「天つゆ」の作り方が記されています。

 18世紀後半から「天麩羅」はワンコインで食べられるファストフードで、屋台が盛んに売り歩くようになります。最初は「天麩羅」の知名度は低く、「胡麻揚げ」の名で売っていたとのことです。その頃の記録では、屋台が「天麩羅」の看板を出すようになっても「屋たひ見せ(店)のごまあげ」(『虚実情夜桜』1800年)と記されています。

 19世紀半ばに「天麩羅屋 見せ(店)で揚げたり 卸したり」(1838年)という川柳があり、当時の屋台に大根おろしが付いていたことが分かります。また、天麩羅と蕎麦の屋台とが並ぶこともあり(蕎麦のトッピングにという江戸っ子のアイデアから生まれ、並んだ屋台はさしずめ江戸版フードコート)、その頃の川柳にも「沢(たく)蔵主(ぞうす) 天麩羅そばが 御意に入」(1827年)と、私たちの大好きな「天麩羅蕎麦」が読み込まれています。(『すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ』飯野亮一 ちくま学芸文庫)

 学生時代の仲間6人で「六人会」と称した<ミニ同窓会>をたまに開いていて、先日は天麩羅屋さんのカウンターで稚鮎の揚げたてを久しぶりに食しました。この時期ならではの、またこれがビールに…、え~、おアジがよろしいようで。

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