社長のひとりごと

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このコーナーは、わが社の社長「大鎌 博」が日々感じたことや、気づいたこと、為になる格言等、思いついたままに綴った、つぶやきコーナーです。

私達社員も、いつも読んで、新たに気づかされたこと、励まされたこと、勉強になって、仕事に活かせたり・・・、そんな社長の人となりを是非皆様に知っていただきたくて、このコーナーを作り、連載することにしました。

是非お部屋探しの合間にでも気楽に読んでいただければ幸いです。

No.14

夏痩せにはむなぎ(鰻)を捕り召せ

 夏バテには鰻だと言いますが、鰻は古くから食べられていたようで、『万葉集』にも大伴家持という歌人が「夏痩せにはむなぎ(鰻)を捕って食べよ」と歌っています。仲の良い友人をからかっているのですが、「むなぎ(鰻)を捕るとはいえ、お前は痩せすぎているから川に流れるなよ」とオチも付けています。

 鰻の蒲焼は、なぜ「蒲焼」というのか、江戸時代には三説あったようです。

 一つは「焼いた色が樺の皮に似ているから」(黒川道祐『雍州府志』1684年)というものです。

二つめは「焼くと匂いが疾(はや)く広がるから香疾(かばやき)」(山東京伝『骨董集』1814年)とするものです。

そして、三つめが「蒲穂説」で、蒲焼の語は早くから見られており「宇治丸かばやきの事。丸にてあぶりて後に切也」(『大草家料理書』室町末期)とあります。「宇治丸」とは宇治川の鰻のことだそうで、その頃は鰻を丸ごと串に刺して焼いていたようです。その焼いたものが、蒲の花穂の形や色に似ていることから「蒲焼」と呼ぶようになった、というものです。

 次には鰻を割いて焼くようになります。17世紀後半に京都で出版された小咄(こばなし)本には、客の家で蒲焼を焼いている場面が描かれていて、その様子からすると当時は生きた鰻を桶に入れて売り歩き、その場で割いて蒲焼にしていたようです(『噺物語』1680年)。また、元禄時代(1688~1704年)には、料理本に「鰻を背開きにし、串を二本刺してあぶる。醤油をかける」とあります。いずれも京都での記録ですが、どちらにも「背開き」とありますね。なお、17世紀の半ばには上京した(京都に行った)幕臣が「若狭鰻が名物だが、背からではなく、腹よりさく」と記しています。西では「背開き」と「腹開き」があったようですね。

 また、江戸での記録では「大食漢の庄田小左衛門が旗本の本庄安芸守邸で、御飯六盃に鰻の蒲焼を八十切食べた」(『世間咄風聞集』元禄年間)ということです。時は元禄、さては大食い選手権でもあったのでしょうか?この頃になると、今の「蒲焼」に近い、といえそうです。

鰻は美味しいですが、普段から栄養価の高いモノが多い私たちには、メタボ街道まっしぐら! ということにならないでしょうか?   (『すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ』飯野亮一 ちくま学芸文庫)

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