社長のひとりごと

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このコーナーは、わが社の社長「大鎌 博」が日々感じたことや、気づいたこと、為になる格言等、思いついたままに綴った、つぶやきコーナーです。

私達社員も、いつも読んで、新たに気づかされたこと、励まされたこと、勉強になって、仕事に活かせたり・・・、そんな社長の人となりを是非皆様に知っていただきたくて、このコーナーを作り、連載することにしました。

是非お部屋探しの合間にでも気楽に読んでいただければ幸いです。

No.43

「漱石の食い意地、子規の大食らい」

 その半生を胃病に悩まされ続けた夏目漱石は、ある時、弟子の森田草平に「若し死んで、閻魔様から、もう一度此の世へ帰してやると云われたら、どうします」と問われて、「そうさな(略)この胃さえ、人並に丈夫にしてくれるなら、また改めて、人生をやり直して見る気があるよ」と答えています。それ程にも胃病は漱石の日常に、いや人生そのものに、取りついていました。

 当然に甘いものは厳禁で、鏡子夫人が菓子類を隠しているのを、お八つ時になると書斎から茶の間に出てきて、あちこち戸棚を開けたり閉めたりとうろつき回り、そんな漱石を見かねてか娘さんがその在り処を教えていた、と息子(伸六)さんが後年に記しています。

漱石はといえば「菓子は(略)有れば食うという位で、態々(わざわざ)買って食いたいと云う程ではない」と言いながら、散歩の途中に、大好きな落花生を砂糖で固めた駄菓子を買ってきて、書斎でひそかに楽しむこともあったそうです。そうした漱石の最後の言葉は、「何か食いたい」。そして、与えられた一匙の葡萄酒に、「うまい」でした。

 一方、その漱石の親友で、晩年を脊椎カリエスで畳一枚の日常を送った正岡子規の、食べ物(食べること?)に対するその執着たるや、鬼気迫るものを感じさせます。その子規が亡くなる(数え年35歳)一年前、明治34年9月のある日の食事は、彼の日記によると、

 【 朝 】粥四椀、ハゼノ佃煮、梅干

 【 昼 】粥四椀、鰹ノサシミ一人前、南瓜一皿、茄子一皿

 【二時過】牛乳ココア入一合、煎餅、菓子パン十個

 【 夕 】奈良茶飯四椀、ナマリ節、茄子一皿

 【食 後】梨:昼二ツ、夕一ツ

と食べも食べたり、しかも全国の弟子から送られる名物でグルメときています。子規が不滅の業績を達成するためのエネルギーには、毎日毎日、大量の食べ物が必要だったのでしょう。その子規の代表句といえば「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」で、季語は彼が大好きだったという<柿>でした。(『文士の食卓』浦西和彦編 中公文庫 いずれも夏目伸六氏の文章より)

 

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